生活記録

日々のこと(旧はてなの茶碗)

議題ボインキーワードについて

判然としない。何か釦を掛け違へた時のやうな心持ちだ。まづ氣になつた點を二つ擧げる。

「ボイン」をキーワードとして認めるか

一つは、議題から、若しくはこの議題内のページから、何が論點なのかが判らない(或いは判りづらい)と云ふこと。

見たところ賛成するにしろ反對するにしろ、必ずしも共通の諒解事項(利用規約やキーワードのガイド等)に基づいて判斷が下されてゐるわけではないみたいだ*1。まづその單語に對し各人がそれぞれの價値觀に基づいて、その單語の問題點を見出さなければならないことになる。そしてそれぞれが持ち合はせてゐる價値觀の是非を檢證することもなく、それを判斷として下す。

結局それは、何に賛成して何を反對したことになるのか。論點がなければ、めいめいが意見を投げつぱなしなるだけで、今後の議題の際、それが經驗として生かせるものになるのだらうか。正しさに於いて、またはルールに基づいてではなく、單に氣分やその場のノリによる勢ひだけで決められてゆくことになるのだらうか。

二つめは、議題に就いて。そもこの議題は「〜を認めるか」と云ふ問ひになるのだらうか?

キーワードとして認められないと云ふ經緯があつたからこそ、今かうして議題として取上げられてゐる。ならば、これが何ゆゑにキーワードとして認め難かつたのか、まづそれが先に問はれるべきことではないのだらうか。すなはち

  • 「ボイン」はキーワードとしては認められないか

と云ふ風に問はれるものではなからうか。それならば「〜を認められない」のは、

  • キーワードとして妥當ではない。ならば何が妥當ではないのか
  • 道徳に觝觸する。ならどこまでなら線を引けるのか

など立脚點が見出しやすくなるだらう。逆に「〜を認めるか」と問ふからには、

  • どのやうなコンセンサスに基づいて、このキーワードが妥當なものであるか
  • また登録することによつて「はてな」に於いてどのやうな益をもたらすか

などが議題の作成者から、明確に提示出來なければならないだらう。

見渡した限り、誰も「ぼいん」を登録することに、積極的に意義を見出してゐるやうには見えない*2。にも關らず「〜を認める」と云ふ問ひ掛けがなされて了ふことに、私は違和感を感じて了つたのだつた。

最後に今囘は、議題のコトバを認めるか、と云ふことよりも、どのやうにして答へを出してゆくかと云ふプロセスの方が問はれてゐるやうに感じてゐる。

ゆゑに保留。

*1:例へば私は「名詞か否か」と云ふのを、指摘されるまで頭にうかべられなかつた。

*2:私が知らないだけなのかもしれない。