生活記録

日々のこと(旧はてなの茶碗)

暫く考へてみる


「Sはpである」と云ふ述定的判斷の形式は、疑はれない。「ある」と云ふ言ひ方が精々問題になるだけである。「は」とは何か、は、今の處、論理學的には何の意味もない問題である。

日本語の「てにをは」の類は、「格」等の側面から言語學・國語學が説明するけれども、論理學の觀點から・論理の面から、どのやうに説明すべきか、と云ふ事は、今の處、誰も考へてゐない。日本語に於ける「てにをは」とは、認識とか判斷とかに於て、何を意味するのですか。何うしてそれを誰も考へないのですか。

最初單に論理と言語(文法)の話かと思つてゐたら、現象學の話だつたとの事*1。どちらにしても、私の手には餘る話だ。
野嵜さんは「てにをは」の根據を求めてゐるのかと思ふ(揣摩臆測ではあるが)。

*1:私は全く氣が附かなかつた。