生活記録

日々のこと(旧はてなの茶碗)

讀了

茲で取上げられてゐる言葉は馴染みのあるものばかりだ。口に出す事に然程抵抗はないし、割と身近にあるものが多い。基本的に私の話言葉は、大部分が標準語で少々東京言葉が(稀に關東方言も)交ざる位だらうか。存外不斷口にするやうな言葉は意識する事が少い。

著者の杉本つとむ氏は表音主義者*1なので、端々に表音的仮名遣を持ち上げる書き方をしてゐる。特に、

現代仮名遣いで、慣習として残した「ヘ・は」も、東京語の伝統にのっとって考えれば、慣用的にも史的観点からも、「え・わ」と用いる正当性が十分に了解される。

なんて事が書かれてゐる。杉本つとむを讀むのは實に大變だ。さういへば以前、歴史的假名遣と現代假名遣をそれぞれ關西方言と關東方言の對比によつて攷察してゐた文章を目にした事があつたけど、どこでだつたかな。

あと讀んでゐると、氏の言語觀みたいなのものが窺へる記述もある。幾つかひくと、

ことばは人間を離れて存在せず、人間は土地を持って生活の場とする。

ことばは単なる記号ではなく、また条理のみをもって律することはできない面が存在する。

(江戸詞の研究に際し江戸城下町と云ふ市街の建築に就いて筆を費やすのは)求める江戸のことばは当然のこととして、究極においてこれを話し、聞く人間を設定しなければならないからである。人間はまたそれが話を展開し形成する場におかねばならない。それこそが言語研究の方と法である。

言語活用の精華は究極において、やはり風土と人間である。

*1:現在はまた異なる主張を述べてゐる。