『一言芳談 (ちくま学芸文庫)』を讀む。後ろに、「兼好・長明・一言芳談」と云ふ臼井吉見の評論のやうな解説が置かれてゐる。この文庫が筑摩書房の『日本の思想5』*1をもとにしてゐると云ふことは、この解説も流用したものなのだらうか。收録されてゐない作品のことばかり言及してゐるので、讀んでゐて何うにも欲求不滿になつて了ひ、もう一度徒然草や方丈記を讀まないと氣が濟まなくなつた。
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1957
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校注者の西尾實さんが解説でかう書いてゐる。面白かつたので以下覺書。
つれづれ草について研究した書物や論文になると、おどろくほど、それが文学作品であることを忘れて論じ立てているものが多い。
もちろん文学作品の研究においては、作家の思想を論じることも、教養を分析することも必要である。描かれている人物や場面をとりたてることも忘れてはならない作業にちがいない。が、そういう分析や抽象は、あくまで文学作品を文学作品として鑑賞し、文学的統一体として把握したうえでの批判的な分析であり、抽象でなくてはならない。わけても、つれづれ草のような随筆形態の文学作品を、統一体としての理解なしに断片的に抽象し、還元的に抽象したら、それはつれづれ草の思想でもなければ、つれづれ草の作者が造形した人物でも場面でもなくなってしまう。
つれづれ草のような、随時、随所、随意に成った随筆を、統一体としてみることには困難がある。とはいっても、ただの読者として、すなおな気持ちで読み進めさえすれば、文学作品の文学作品たる感銘はまとまって得られるが、はじめから研究というような態度で、めくじらを立てて読むと、文学の文学たるところは、文字の陰に姿をかくしてしまう。「つれづれ草は、ことばがやさしいから広く読まれるのだ」などとうそぶいている研究者の手におえないのは、このためである。