生活記録

日々のこと(旧はてなの茶碗)

四册讀了

裏読み深読み国語辞書

裏読み深読み国語辞書

三章で述べられてゐる「広辞苑」の見出し語の配列基準の話は讀むまで氣づかなかつた。二版から三版までは、表音式假名遣ひとも現代假名遣ひとも異なる広辞苑式仮名遣いとでも云ふやうな変則的なものが用ゐられてゐた。

四章の、異字同訓の書き分け*1について考へて了ふ。これらの漢字の使ひ分けのルールが、果たして日本語の傳統的な表記習慣によるものなのか。

本文中に山田俊雄のコメントがあるので引用する。

ぼくは戦前の辞書が掲げる漢字表記が一般の言語生活の表記を反映したものなのかどうかに疑問を持っているんだ。特に和語に当てた漢字は曲者だ。生の言語資料にもとづいてのことではないと思うよ。気軽に訓がどうのこうのという人は世の中に多いが、どこまでわかって言っているんだろうね。

ともかく、戦前の辞書も今の辞書も、漢字の表記法指示は厳密に調べたものを根拠にしているとはいえないと思う。日本語と漢字表記の結びつきについて、責任のある答えが用意されていないんだ。少なくともぼくは責任をもって答えられない。ぼくの知るかぎり明治以降の文献に関して本格的な表記資料がいまだにないんだから。まして異字同訓は手探りの状態にあるといっていい。もちろんわれわれ(筆者注・編者)も個々に努力はしているけど、辞書を手掛かりに漢字表記を考える場合には、そうした限界を考慮に入れておく必要がある。

国語辞書事件簿

国語辞書事件簿

これほど自分の好みを前面に出した文を発表するのは初めてのことである。記者は、文章を書く場合に好悪の感情に左右されないようにという教育を受けている。原則として“わたしを消した”文章を書く。本書はそんなふうにいわゆる客観的な立場で書いたものではない。

著者もさう書いてゐるのだが、どつか扇情的な處が五月蝿く感ぜられた。

国語辞書 誰も知らない出生の秘密

国語辞書 誰も知らない出生の秘密

五章と六章で辭書と擴張新字體について觸れてゐる。著者はここで、自身が抱いてゐたある常識が覆されて、大きな衝撃を受けたと書いてゐる。


漢字には確たる正字が存在し、それは漢和辞典などでいつでも確認することができる、と信じこんでいたが、それはじつはとんでもない幻想であることを思いしらされた。
正字とは何か? またはどのやうに正字に就いて語るべきか。

*1:例へば、暖かい/温かい、計る/測る/量る…等