生活記録

日々のこと(旧はてなの茶碗)

讀了

白川静『回思九十年』(平凡社*1 讀了。長いけど幾つか引用してみる。

われわれが漢字を使っているのは、けっして便宜的な理由によるのではなく、またわれわれがそれに代わるものをもち得ないからというのでもなく、「かな」的な世界の対立者として、漢字が日本人の要求するものにもっとも適したものだからとり入れているのだと思う。
われわれは漢字を日本語の音韻構造に合わせ、適合させて使っているわけです。だから、漢字はよその国の文字であり、われわれの言葉をあらわすのに適当な文字ではないという、漢字廃止論者によく見られるような考え方は、私は間違っていると思う。
漢字は三千何百年ものあいだずっと生き続けてきたが、歴史的にはずいぶん変わってきている。中国人はこの漢字を同じ文字のまま、そのときの必要な発音で読んでいる。だから漢字は、その意味では一つの記号にすぎない。表音文字ではないのです。広大な漢字文化圏の全体にわたって、時間と空間を超えた、意味の体系といえます。
われわれも、われわれ自身が一つの音を与えて、その音で読んでいるのであって、漢字の音訓の用法は日本語といってよいわけです。

回思九十年「書と字」より