『活字に憑かれた男たち』讀了。またあれこれ拔書き。
わが国では明朝体が本文用書体として、ほとんど唯一絶対の王座を占めていて、その使途が問われることはあまりないようです。つまり仏の慈悲を説く仏典も、神の愛をかたる聖書も、哲学も小説も詩歌も、上製本も文庫本も、役所の文書も、コンピュターの画面も、その取り扱い説明書までも、極論すればなんでもかんでも明朝体です。
書体とその使途が、歴史とその目的にあわせて問われることはありません。それはある意味ではタイポグラフィの未成熟をあらわしています……。
書體の時代考證等に關して。
わが国ではこうしたことにはきわめて無頓着です。たとえば忠臣蔵の映画をみていたりすると、背景の商店の看板文字が「勘亭流」になっていることがあります。
二・二六事件を扱った番組で、降りしきる雪の中を行軍する兵士の背景の看板に、「ゴナU」がもちいられていました。
わざわざ「イタリア料理」と書いてあるレストランの制定文字が、英国書風のキャズロンだったり、「地中海料理」が、ドイツ書風のフラクトゥールだったりするのは、そろそろ困りものです……。
わが国ではながいあいだ、デザインという名のもとに、好悪や美醜を中心にして、文字や印刷書体が扱われてきました。
つまり活字書体には、歴史や風俗、そして宗教や民族性が、ぬけがたく付着しています。ですから、好悪や美醜といった、即感印象だけでは不十分ですし、ときには間違いをおかすことがあります。
書体と書風とその時代性を問うこと……。