生活記録

日々のこと(旧はてなの茶碗)

無題

假名遣ひを傳統なり文化として捉へる事は慥かに重要ですが、たゞ、その側面だけで語られるのは、問題があるのでは。そも野嵜さんは

過去から現代に至るまで一貫して存在する、潛在的な日本語の原則、及びその原則を顯在化させようとする試みそのものを、觀念としての「正統表記」「正かなづかひ」と呼ぶべきである、と考へます。

「過去の日本語に一貫して潛在的に存在した原理原則を、意識的に再構築せよ」

と云ふスタンスだつた筈。「斷絶」したり「死んだりする」ものが、原理原則たり得るのですか。

社會的には最う「歴史的假名遣の傳統」は絶えてゐると言ふしかないのではないですか。使ひ續けてゐるのは飽くまで個人に過ぎません。

で、事實・現實として歴史的假名遣の傳統は斷絶してゐるけれども、理念として正假名遣が正統の表記である事は誰も否定出來ません。

恐らく私は「傳統」と云ふ語を、野嵜さんの言ふ「理念」に近いものとして捉へてゐるのかもしれません。茲で述べられてゐる、社會なり時代なりで移り變るものを「傳統」とは呼びたくない。私はそれを單に「習慣」と呼びます。